vol.4 鑑定は知識をひけらかす場ではない

以前、姓名判断を受けた方のお話を聞きました。

普段、あまりご自身のことを話されるタイプではなく
とてもおとなしい方が
「聞いてくださーーーーい!」という感じだったので
よほどのことだったのだな、と思いました。

あるスクールで知り合った方が、
姓名判断をしてくださったのだそう。

その鑑定内容はメールで送られてきたとのことでしたが、
「結婚後の名前がよくない。今すぐ旧姓にしたほうがいい」

そのメールには、
「今の名前がどれだけよくないか」がいろいろ綴られていたのだそう。

ある日、そんなメールが送られてきたとして
「じゃあ、今から旧姓で行きます」とはなりにくい。

現実的に考えて。

たとえば、それが結婚前だったとして、
「どちらの姓を名乗るか迷っています」とか
「仕事は旧姓でいこうか悩んでいます」とか
そういう段階での相談だったとしたら

「旧姓だったらこうで、新姓だったらこうだから、、、」
というのはありだと思う。

けれども。

結婚して何年も経って
すべて新姓で通しているのに
今更旧姓に戻したら

「あれ、離婚したのかな?」って思いますよね、フツウ。

これはあまり自然でない。

そして、この話を聞いていて
いちばんイマイチだったと思ったのが

「よくないことの言いっぱなし」

これは救いがない。

「こうこうよくないから、対処法として、、、」とか
「改善策として、、」とか
そう言った提案があるのならまだしも

「どんどん運気が落ちる」
「仕事でもうまくいかない」
「体調も崩す」
「金銭面でも、、」と

立て続けに
無機質な「文字だけで」伝えられたとしたら、、、。

ここに救いがあるのだろうか?

いったい、誰のための、
何のための鑑定なのだろうか・・?

鑑定は、知識をひけらかすための場だろうか?

鑑定は、徒にクライアントを不安にさせる場なのだろうか?

何を証明したいのだろうか?

たとえば、それが、
たまたま女性誌に書かれていて、
自分に該当するページを読んでいたら
「なんだか私の名前、イマイチなのかな?」とか
「今年、どうやらよくないらしい」とか
そういうのだったら、まだ救いがある。

「これは、万人向けに書かれていたものだから」とか
「もっと、全体をみたら違うもしれない」とか
「ちょっと気になるから、ちゃんと鑑定受けてみようかな」とか。

そして、雑誌に書かれているようなことは
だいたい忘れられる。と思う。

前述の彼女、
ちょっと不安になって、
鑑定をしてくれた人に、何かを質問したらしい。

なのに、それについては回答がない。
それはないよね・・・?

そして、そんな「イマイチなことだけの情報」ならいらないよね。
むしろ、知らないほうがいい。

もし、その人が、今後病気や事故に遭ったとしたら
きっと「名前のせい」にするだろうし、
いつも名前のことはアタマのどこかに存在して
自ら「イマイチなこと」を引き寄せるかもしれない。

「ああ、だからやっぱり、、」

オーラソーマでも四柱推命でも、
人をコントロールすることも
不安にすることも
いくらでもできる。

けれど、

そういうことがしたいわけではない。

私の推命の先生は、「対面での鑑定」しかされない。
スカイプでもされない。
それにはいくつかの理由があるという。

それは、対面かメールかという、ツールの問題だけでなく
「鑑定のありかた」
「その人のありかた」の問題だ。

何かを勉強して
それを提供するのだとしたら
その分野の知識は当たり前のことだけれど、

それ以前に、
国語力、
表現力、
語彙力、
カウンセリング力、
人間力を磨いたらいい。

というか、それが欠落していて
人に何かを提供するなんて、、、怖ろしい。

歯の浮くセリフの連発など期待していない。

でも、それ以上に

前も上も向けないような鑑定などもっといらない。

私の鑑定に対する想いはここに書いた通り。

そこにあるのはセンスと愛で

知識では人は癒されない。